論文要旨

徳之島における闘牛の意味

松山 由香里

鹿児島県の徳之島は闘牛が盛んな地域である。闘牛とは牛同士の闘いである。徳之島における闘牛も、他の地域における動物を用いた闘い同様に勝敗にこだわるものである。しかし、他の地域における動物たちが戦闘という遊戯の駒のひとつにすぎず、負ければその場で処分されるのに対し、徳之島の闘牛は島の人々から家族同然の存在として扱われる。
インドネシアのバリ島における闘鶏を調査した人類学者ベイトソンとミードによれば、バリ人男性にとって雄鶏は彼そのものであり「自立して動くペニス」または「それ自身生命をもつ動く性器」であるという(ベイトソン1942)。しかし、勝負に負けた場合、彼自身であるはずの雄鶏はその場で片足をもがれ殺される。それとは対照的に、徳之島の闘牛牛はたとえ試合で負けたとしてもそのようには扱われない。
また、徳之島の人々にとって闘牛という営みは闘い以上の重要な意味を持つ。人類学者のギアーツはバリ島における闘鶏に関して、「闘鶏の機能は、もしそう呼びたいのなら解釈である。闘鶏はバリの経験をバリ風に読みこんだものであり、彼ら自身による彼ら自身の物語である」と述べている。そして「闘鶏に行き、これに参加することは、バリ人にとって一種の感情教育」であり、そこでバリ人たちは「文化的特質と個人的感性がいかなるものであるかを知る」と主張している(ギアーツ1987)。
本稿では上記のギアーツの闘鶏に関する見解を、徳之島の闘牛の分析に援用する。ギアーツが述べた「感情教育」と「文化的特性」、そして「個人的特性」などの概念を徳之島における闘牛に当てはめ、徳之島の闘牛とバリ島の闘鶏を比較し、その類似点と相違点を指摘する。

 

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